ところが、スターリン・レジームとしては、ドイツ軍に占領された地域の産油設備や鉄道輸送網などをそのまま接収・利用させるつもりはありませんでした。ソ連軍はもはや持ちこたえられそうもなくなった地区の給油施設や輸送設備を、撤退前に自ら全面的に破壊したのです。住民たちをも強制的に避難させました。ドイツ軍がようやくグローズヌィやバクーに到達してみると、石油生産供給施設や集落はほとんど破壊され、黒煙を上げる瓦礫の山が残されていただけでした。
ここにきて、しかるべき兵站・補給線を構築しないで、占領・征服地の資源を確保・収奪するという方針で突進してきたドイツ軍は、恐るべき壁=袋小路にぶつかってしまいました。東欧から中央アジアまで恐ろしいほど長く伸び切った戦線をカヴァーする兵站体系は欠如していて、補給線はあちらこちらでズタズタに断裂していたのです。
スターリングラードの攻囲作戦は、じつは、こういうドイツ軍の兵站・補給線の行き詰まりという状況のなかで、参謀本部の多数意見や現場の司令官の状況判断・指揮権を無視して、ヒトラーと参謀本部のイエスマンたちが強行させたものだったのです。
ドイツ空軍が波状的におこなった急降下爆撃隊によるこの都市の空爆もまた、現場のドイツ陸軍の行動と防御を妨げる状況をもたらしただけでした。瓦礫の山となった戦場では、ソ連軍はゲリラ戦のような散兵戦、狙撃線を仕かけていきました。ドイツ軍兵士にとっては、占領後に徴発する食糧も雨露や寒波をしのぐ家屋も残されていなかったのです。瓦礫が積み重なった街路では見通しもきかず、秩序立った戦車隊の進軍や砲兵隊による攻撃は不可能になっていました。
この地帯の厳冬は、ドイツ軍全体の士気と規律を打ち砕き、将官と兵員の精神的退廃と荒廃をはびこらせていきました。ろくな補給体制もなしにグルジアの極寒のなかに放り込まれれば、それも避けられないことではありました。
この辺の事情は、ドイツ映画「スターリングラード」で如実に描かれています。ドイツ軍は厳冬の曠野で分断され消耗し、規律と統制は失われ自滅していきました。ドイツ側から見たロシア戦線の悲惨な状況をじつにみごとに描き切っているので、ぜひみていただきたいものです。
たしかに、ドイツ軍の空爆と猛砲撃は、ソ連有数の工業都市(それゆえ兵器供給拠点)であるスターリングラードの再生産体系を破壊しました。戦車の製造工場も撤収させました。が、ソ連はアメリカの財政的支援・技術的支援を受けながら、ウラルでより一貫した戦車の開発・製造ライン(フォード主義システムを取り入れた)を再建していました。月産500台以上のT−34(初期76型)戦車を量産するシステムも動き出していたのです。
ほかの記事でも述べたが、ヒトラーは軍略・戦争術についてはまったくの素人でした。にもかかわらず、虚構のカリスマを打ち立てたために、またドイツ国防軍(
Abwehr )もヒトラーの権威を受容したため、ずぶの素人の作戦構想が根拠や準備もなしにまかり通っていきました。スターリングラード戦もまた、前車の轍を踏むことになりました。
ヒトラー(ナチス党自体)はなにしろ象徴的な事態を好みました。というよりも、戦争(戦略)全体のなかでの位置づけや意味合いをまったく考慮せずに、とにかく象徴的な戦闘・戦線での戦果(多分に見せかけの勝利)を執拗に追求しました。
国防軍の有能な参謀たち(戦争の専門家)は、つまりドイツの前線の将官・参謀たちは、スターリングラードからの早期の撤収と戦線の縮小=再構築を提示しましたが、1942年初冬まで、ことごとくヒトラー(=参謀本部)から撥ねつけられていました。とかくするうちに、泥沼にはまり込んでいったのです。
知ったかぶりの兵器オタク(ヒトラーのような)が戦略全体に容喙すれば、手ひどいしっぺ返しを受けるのです。
とにかく、――見栄えは華々しいが戦略的に大した意味がない――スターリングラードの奪取占領にこだわり続けたために、補給体系が崩壊し、東部戦線(北部から南部まで)全体が膠着し、後退崩壊が進展する事態に、有効な対策を打ち出すことができなくなりました。ドイツの東部戦線は地域ごとにひどく凹凸をなすようになり、突出部分が後方から遮断されたり、取り残されたり、連絡経路を寸断された戦線がいたるところに続出していきます。
緒戦の攻勢局面での突出部は、敵側の反撃が強まり戦線の膠着や後退が始まるやいなや、後方支援や補給兵站との連絡が断たれた破局点になるしかありません。それが戦争のイロハです。